Goodwood Cafe top / Woody Note top
 ■07年10月1日  『怒りの理由 』
 
(※追記:以下の文章中には教師への批判が述べられているけれども、もちろんそれは教職に就いている人全てを揶揄しているものではない。そこを誤解しないで頂きたいので付け加えておく。尚これは何かの拍子にこのサイトを訪れてこの文章を読み、行間も背景も読み込むことなしに怒り出す匿名のネット徘徊人への予防線のために書いたのではなく、教職を生業としている私の多くの友人・知人達への礼儀と敬意として加えるものである。)


 最近あるニュースを聞いて、珍しくはらわたが煮えくり返るほど怒り狂ってしまった。ここ数年の陰惨・陰湿であきれ果てるようなニュースの波の中では、いつもなら怒りのどこかで(またか。)と思う諦観のような冷めた思いがあるのだが、そのニュースを聞いた時だけはなぜか一晩中怒りが収まらなかった。そのニュースとは、例の相撲部屋の若い弟子さんが亡くなった事件である。(本当は怒りのあまり 『リンチ殺人』 という言葉を使おうと思ったのだが、少し冷静になったのでここでは表現を変えた。)

 一人の若者が死に追いやられたという過程自体はもちろん、そのいくつかの関連報道でも私の憤りは増幅された。
 ひとつは事件が明らかになってから少ししてから、『廃業もやむなし』 といった類の見出しのニュースがあったことである。やむなし、って、バットやビール瓶で人を殴り殺しておいてその後も普通に仕事が続けられるわけないだろう、というのがひとつ。
 それから当事者の親方について、「普段は温厚な人柄で…」というのも聞いて頭が沸騰した。人前では人当たりの良い風体を見せておきながら、別のところでは、あるいは酔った時には鬼畜生のように冷酷になるという人間性に虫酸が走る。
 だがこれを書いている段階ではまだ事件の詳細は明らかでないし、断片的な報道やワイドショー的な扇動を真に受けて自分のサイトを一時の感情で汚すほど私は馬鹿ではない(と自分では思っている)。ではなぜこの場にこのニュースのこと、自分の怒りのことを書こうと思ったかと考えれば、この怒りの根本には私自身の経験があるからと思い至ったからである。そしてそれを書いて形にしてみることで、自分の言いようのない怒りの渦が少しは客観化できるだろうという予測があったからだ。
  
                        ▼ 

 最近ではもう見かけることはなくなったと思うが、私達が学校に通っていた頃までには、いわゆる体罰教師がどこの学校にも一人二人はいたものである。そこで不思議なのだが、その体罰教師というのは皆から恐れられている反面、妙に生徒に人気のある教師も多かった。実際私の学校にもその手の教師がいた。
 その教師は普段はにこやかなのだが、ちょっとした拍子で不機嫌になり、生徒達を殴り飛ばした。それなのに、生徒の間ではその先生を好きだという意見も少なからずあったのである。
 それはなぜだろう。体罰は愛情の裏返しだから? 熱心さの延長が体罰だから? 確かにそれは正解の一部分かもしれない。だが実際は違う。生徒達は、その教師のいい所を過大評価し、その先生は良い先生なんだと思うことによって自分を守っていたのだと思う。
 私は当時からその手の教師を軽蔑していた。決して『あの先生は怖いけど面白くて良い先生だ。』なんて言わなかった。別に自分の直観力を自己肯定しているわけではない。大人になり、冷静に思い返してみてもそう思う、というだけだ。
 閉ざされた組織の中に一方的な暴力で君臨するチンケな暴君。そんなやつらを、私は決して許すことが出来ない。それは昔も、もちろん現在も変わりない。

                      ▼
 
 もうひとつは私自身の経験というよりは、最近見聞きしたある少女の話である。
 彼女はS美ちゃん。ごく普通の中学二年生の女の子である。その彼女が最近学校へ行かなくなり、入院した。その話を聞いた時、恥ずかしながら正直私は、勉強嫌い、学校嫌いの子が保健室に逃げ込むという、よくあるパターンの延長だと思った。
 だが実際は違った。彼女はいじめを受けていたのである。
 相手は同じ部活のA子(その取り巻きもいるらしい)。特に思いあたる理由もないのに、S美ちゃんは「殺す」などという言葉を投げかけられたり、ひどい時にはカッターナイフを目の前にちらつかされたりするようになった。A子はクラスが違うが、A子はS美ちゃんのクラスに入り込んでくる。S美ちゃんはそれだけでも怖くて仕方ない。最近は登校前に嘔吐や下痢に悩まされるようになり、あまりに体調が悪くなりすぎたために入院することになったのである。
 理不尽である。だが、もっと理不尽なことがその後に続く。
 事態が深刻だと知ったS美ちゃんの主治医のドクターは、病院に学校の先生を呼んで相談することにした。来たのは担任のT先生。本来ならば問題の部活の顧問の先生も立ち会うべきだが、その先生は全く話を聞いてくれなくて頼りにならないからと、S美ちゃんがT先生を指名したそうである。つまりS美ちゃんにしてみればT先生は頼りに出来そうな数少ない味方だと言うわけだ。
 主治医はT先生にS美ちゃんの経過を説明し、学校での友人関係に問題があるということを告げ、学校の対応を尋ねた。すると、その先生はこう答えたのである。
「確かにA子は少し問題がありますが、少々気が強くて言葉遣いが荒いという程度です。カッターを取り出した話は聞いていますが、刃を見せてはいないようなのでそれほど危険だとは考えていません。A子に直接の指導は出来ませんが、基本的に他のクラスへの出入りは禁止の校則なので、それは全体として守らせるつもりです。」
 あっけにとられる対応である。更に教師はこんな言葉も続けた。
「最近の子供は何というか、線が細いですから。」
 つまりはS美を責めているのである。
 百歩譲って、もしかするとS美ちゃんにも落ち度はあるのかもしれない。些細なことをオーバーに仕立てて被害者を演じている可能性もあるかもしれない。だが、S美ちゃんには私も直接会って話をしたが、ごく普通のおとなしい14歳の女の子である。そんな子が同級生数人に囲まれ、乱暴な言葉で脅され、刃物をちらつかされたら、どう感じるか。学校に行けなくなるほどの恐怖を感じるのは不思議なことだろうか。

 その学校側の対応を聞いて、僕はこういう事は今の日本のあちこちで行われているんだろうな、と思った。教師の対応は単純だ。いじめがあろうとなかろうと関係ない。何事も起こっていない振りをしていれば、問題の生徒たちは自然に卒業していくのだ。
 そしてそのうちのごくわずかの子供達が何らかのアクションを起こした時だけ、大人たちは自分達の間違いに気づかされるのだ。言葉にして書くのさえも憚られる様な最悪で不幸な結末。いや、だが、大人たちはそんな事態が起こった時でさえ自分達の過ちを認めようとはしない。子供達の不幸で悲しいニュースのたびに繰り返される責任逃れ、言い訳。テレビや新聞に流される教師達の言葉を、私達は、そしてS美ちゃんのような子供達はイヤと言うほど目にしている。そんな欺瞞の洪水の中で、本当は真っ先に守られるべき者たちが、次々と逃げ場を失っているのである。
 S美ちゃんとはそれほど近い立場にないので、僕はあまり介入できないのだが、事態の推移はなるべく見守って行きたいと思っている。

 弱い者が見捨てられ、腐った卑怯者が何食わぬ顔でうまいメシを食うようなことは、絶対に許されてはならない。沸々と湧いてくる怒りの中で、私はそれだけは強く思うのである。

                                    

Goodwood Cafe top / Woody Note top